凡庸京大生の自由帳

京大卒ニートの自由帳

サブブログ。こちらでは個人的な事しか書きません。日記・つぶやき。

小学生の時の学校での記憶がほとんどない

f:id:nagisaharu:20220226044526p:plain

友人とごくたまーに小学生時代の話になるときがあります。

 

その時に思うのが「あれ、みんな小学生時代のこと覚えすぎじゃね?」ということ。

 

 

小学校1年生2年生の時の学校での記憶とか無いのが普通でしょって思ってましたが、どうやらそうでもない模様。

 

 

聞いて回りたいところですが、友人が少なすぎて十分な聞き取りサンプルが取れない。大変残念。

 

 

自分の場合、小学校1~3年くらいは親と先生にとにかく怒られていたという記憶があるだけで、具体的な学校での情景はあまり思い浮かびません。

 

つまり、その時期にとにかく怒られていたという記憶の記憶(≒どこかの時点でその記憶を想起したという記憶?わからん)があるだけなんだと思います。

 

 

数少ないおぼろげな記憶についても、それが夢か現実か自信が持てません。

 

 

自分は現実と夢が時々区別できなくなります。

 

友人にLINEやメールを送ったと思ったのに、確認してみたら実際は送ってなかったということがたまにあります。夢で送ってたのか、と後で気づきます。

 

 

まぁそれは良いとして、全力で小学校での記憶を思い出しているのですが、本当に思い出せん...

 

 

今、帰りの会(懐かしい)で先生が九九を前の席の子から順番に当てて答えさせていく情景が思い浮かびました。「何のためにこれやってんだ......」と早く帰りたいという強い気持ちがあったから記憶に引っかかっているのかもしれません。

 

でも何年生の時のことなのかが分からない。

 

というわけで調べてみたら九九を習うのは2年生らしい!やった!2年生のときの記憶がある!

 

 

3年、4年次の学校での出来事は1つも思い出せない。

 

 

5年生のときのものと思われる記憶は3つほど出来事を思い出しましたが、それが本当に5年生だったかは分かりません。

 

 

6年生については教室の情景がかなり鮮明に思い出されました。授業もいくつか思い出せます。

 

自分の小学校時代の記憶は5年と6年のもので埋め尽くされているらしいです。

 

 

ただ、学校外の記憶は結構残ってます。

瞬時にたくさんは思い出せませんが、学校に比べたら多いです。

 

 

小学校低学年次に親や先生から怒られまくったことで学校での記憶が抑圧されているとしか思えません。

 

 

小学校低学年次は今思うと本当におかしかったです。なんであんなに人に物理的危害を加えていたのか謎です。別の人間みたい。

 

 

そのおかげで学校からは電話が頻繁に飛んできて、未だに実家で電話の音を聞くと喉がきゅっと締まり、手汗が出てきます(こっちにも書いたことだけど)。

 

 

小学生の時の学校での記憶(特に低学年次)は普通あるものなのでしょうか。

 

気になります。

 

・YouTubeチャンネル

・凡庸京大生の独り言(メインブログ)

・思い出エッセイ集(note)

靴を履くのが面倒くさい。コートを着るのも面倒くさい。

f:id:nagisaharu:20220226035635p:plain

今は春休みですが、その前の1月の終わりまで自分は大学には大抵部屋着のまま、そして靴はサンダルを履いて行っていました。

 

で、人から言われて初めて気づいたのですが、周りを見渡しても真冬にそんな格好をしている人はいません。

 

 

寒くないのかとか言われますが、勿論寒いです。

 

しかし、その寒さよりも靴を履くこととコートを着ること(厳密には着て行くこと)の面倒くささのほうが勝ってしまいます。

 

 

逆に他の人はその面倒くささよりも寒さへの対処を優先しているということですが、ここに自分の面倒くささの度合いの強さが垣間見えました。

 

 

冷静に考えて、ただ外にでるという行為のために靴を履くってかなり面倒です。

 

靴を履くということは靴下を履くということであり、靴下を選び、履く作業があります。

次に靴を履くという行為そのものでは、かかとの部分に指を入れて靴を履きます。これはスムーズではない。

 

 

一方サンダルは足をすっといれて終わりです。素晴らしい。

 

 

次にコートについてですが、外出の直前にコートを着るという行為についてはそこまで面倒くさくないのです。これはサンダルを履くのと同じようなものです。

 

問題は、大学に着いた後。

 

講義室の中は暖房が効いているのでコートを脱ぐ必要があります。

 

この時点で少し面倒ですが、さらにコートの外側にゴミがつかないように、コートの内側を外側にしてくるめて隣の椅子に置くだとか、コートのポケットに入ってるスマホを出すだとか、「あれ?財布ってコートのポケットに入ってたっけ?」と言った具合に脱いだコートの中身をいじるだとか...etc.

 

とにかく考えることがなんか増えます。

 

 

それが嫌というわけなんですが、こう文章に起こすとなんだか面倒くさがりというよりも脳の考えるためのスペースが極端に小さい、といったほうがより本質的な気がしてきました。

 

確かに同時にいろんなことを考えると脳がすぐにパンクしがち。

入学時は書類だとか申し込みだとか履修だとかでほんとに頭おかしくなってました。

 

 

服に関しては同じ服7着くらい持ってるんですが、これも無意識的に脳を考えさせないようにした結果なんでしょうか。

 

 

1日長時間勉強できないこととも関係ありそう。

 

やる気がなくなって勉強できなくなるとかではなく、単純に疲れてもう無理だってなるんですよね。

 

長距離走限界まで走った後に、はいじゃあ次は100m走!とか言われてもいや無理でしょってなりますよね。

 

それと同じです。いや違うか。

 

・YouTubeチャンネル

・凡庸京大生の独り言(メインブログ)

・思い出エッセイ集(note)

Twitterアカウントを作った&Twitterが嫌いな理由(≒人嫌いの理由)

f:id:nagisaharu:20220205063344p:plain

Twitterのアカウントを作りました(こちら)。アカウント作成はもう何度目かわかりません。

 

自分はTwitterが嫌いです。じゃあなんでアカウント作るんだよってなると思いますが、まぁ一種のチャレンジです。

 

アウトプットの場としてTwitterを活用しようと思いました。

たとえフォロワーが0人であろうとTwitterでアウトプットすることにデメリットは無く、少なからずメリットがあります(後述)。

 

メリットがあると分かっていながらTwitterをやらなかったのはTwitterが嫌いだからですが、もっと厳密に言えばここ数年で自分の「人嫌い」がネット世界にも拡張されてしまったからであるということになります。

人嫌い=人との関わりが嫌い

「人嫌い」とは、多くの場合「人との関わりが嫌い」ということではないでしょうか。

少なくとも自分はそうです。

 

自分の場合、人間それ自体は恐らく好きです。

 

大小問わず何らかのコミュニティの秩序が保たれている状態、また秩序が保たれるための諸条件などは多様で面白く、興味のひかれるものです。

 

また人間の身体機能にも興味があります。

知れば知るほど不思議で、特に人間の脳の複雑さには驚かされます。

 

 

ただ、ここでいう人間が好き、というのは水槽で泳ぐ金魚を見るのが好きというようなものであり、人間と相互的に関わることや、他者から何らかの作用を及ぼされることは嫌いです。

 

これが「人嫌い」です。

 

 

人間って個体差が大きすぎて行動が予想できなさすぎるし、何考えてるかわからないし、そのくせ言語で以てある程度は意思疎通を試みることができてしまうし...

 

分からなすぎて気持ち悪いしイライラするんですよね。

人間と関わる時に考えることが多すぎて脳が疲弊します。疲れるのは嫌いです。

 

そのような人間という存在と積極的にコミュニケーションを取りたいと思う人の気持ちは一生かかっても理解できないと思います。

 

 

そういうわけで現実世界ではできる限り人と関わらないようにしようとしてきました。

こうすると何がいいかと言うと、毎日の思考の中の登場人物が自分以外現れません。

 

自分の人生なのに、自分の思考に他者が介入してきたり、ましてや他者のことで悩むなど絶対に嫌であると強く感じます。

 

他人に時間を割くということが無いのでストレスフリーに近づけるのです。

ネットの常に人があるという感覚が苦手

前までの自分は現実世界では極力人と関わらないようにしていましたが、ネットの世界では頻繁に人と交流していました。

 

主にTwitterで同年代の人達と毎日のように関わっていましたが、ここ数年くらいでそれも無理になりました

 

 

そのアカウントは1300人くらいフォロワーがいたので、消すのは勿体なかったなと後悔していますが、今振り返ると現実世界で耐えられなかった、人と関わることへのストレスがネット世界にも拡張されていたんだと思います。

 

 

アカウント削除に踏み切った大きなきっかけがあったわけでもありません。

 

そもそも自分はTwitterのアカウントやLINEのアカウントを衝動的に消してしまう癖があるのです。

 

Twitterのアカウントリセット?(アカウント削除➜新しく作り直し)は何度したかわからないほどしました。

 

LINEのアカウントも3回くらい消しています。

 

 

ネット(特にSNS)は常に人とつながっている感覚をもたらします。

冷静なときにふと、人とつながっていることがストレスとして襲いかかるのです。

 

 

それに加えて、Twitterのような不特定多数の人の発言が短時間に大量に見えてしまうものは大きなストレスとなりました。

 

人間1人の反応に対する処理でも大変なのに、大量の人間の発言は脳が処理しきれませんでした。

相互的に関わっているわけではないですが、いくつもの人格を帯びた文章が自分になんらかの作用を及ぼしてきます。

 

「なんでこんな考えをするんだろう」「なんでわからないんだろう」という反応を1ツイートごとにしてしまって頭がおかしくなりました(「考えなければいいじゃん」とはよく言われますが思考が止められないのです)。

 

YouTubeのコメント欄もそんな感じでめちゃくちゃイライラしてしまうことが多いです。

 

面白いコメントやためになるコメントもあるのでつい見てしまいますが、苛立たしいコメントの方が圧倒的に多いですね。

 

 

このような、人格を感じるものが自らに作用を及ぼしてくることへの忌避が歳を重ねるごとにどんどん強くなってきているのを感じます。

 

 

人格を構成するパラメータ群は1人として同じことは無いので、現実世界でもそれへの処理は大変です。

 

ネットはその人数が現実よりはるかに多いわけで、自分にそれらへの耐性はありませんでした。

 

 

じゃあネットなんかやらなければいいじゃないか、という話なのですが今の社会でネット活用を完全にやめてしまうというのは圧倒的ハンデを背負うことになります。

 

そのハンデを自分はまだ完全には受け入れられないのです。

 

特に、Twitterは素晴らしいネットツールの一つです。

Twitterで発信することの重要性

ネットへの耐性の低さはあらゆる可能性を極端に狭めてしまうことに繋がると強く感じています。

 


自分は将来就職するということを考えていません(考えられません)。

 


大学卒業後はほぼニート確定なのですが、いつまでもニートであるわけにもいかないでしょう。

可能であるならばいつかは個人でどうにかしたいと思っています。

 


なんらかの娯楽・作品・ツール...etc.を提供して生きていくというのが理想です。

 

 

それを目指す場合、言うまでもなくTwitterの拡散力は大きな武器になるわけですが、そこでネット適正の壁にぶつかります。

 


(取らぬ狸の皮算用感がすごいですが)例えばもしも奇跡的に自分が何かしら価値あるものを提供できそうだ、となった場合であっても、ネットの海にそれをさらけ出さなければ誰かにそれを認知してもらう確率は、ネットにそれをさらけ出さない場合に比べてとんでもなく低いでしょう。

 


「取り敢えずアウトプット」という精神は本当に重要だと思います。

そしてアウトプットの場としてのTwitterは非常に強いです。

 


アウトプットの成功サイクルとしては、特にここ数年で以下のパターンがよく目につくようになりました。

 


TwitterYouTubeで何らかのコンテンツをコツコツ発信

②支持してくれる人が増え、拡散される

③企業の目につき商品化

 

 

特に、「Twitterにオリジナル漫画投稿→出版社の目につき出版→アニメ化まで」という流れは本当によく見ます。

 

 

ここまで直接的にお金にならないとしても、例えばブログやYouTubeなどはアクセス数が多いほど収益がでるので、単純に1人でも多くの人に見てもらうことに価値があります。

 


また、Twitterに関して言えばフォロワーが少なくても拡散されれば多くの人の目にふれます。


勿論フォロワーが少ないと拡散される確率も小さいですが、確率は0ではないです。

 


事実、自分が以前使っていたアカウントで、あるツイートがバズり(1.8万RTくらいされた記憶)その影響で一時的にブログへのアクセス数が跳ね上がりました(ちなみにその時のフォロワー数は40人くらいだった気がします)。

 

一時的なアクセス数増加と言っても、自分のサイトに言及する人の数は増えるわけで、それによりドメインパワーが強くなるので、その後にも良い影響として残ります。

 

 

企業の方から案件をいただくこともありましたが、Twitterでのバズりがそれに間接的に関わっていたという可能性は否定できないでしょう。

 

 

そういったチャンスの存在を知っているのにも関わらずTwitterから距離をおいていたのは自らの精神の弱さ故です。

 

Twitterに伴う精神的苦痛がTwitterで得られるメリットを上回ってしまっていました。

できるだけフォローしない

前回のアカウントもどちらかと言えばアウトプットのために使っていました。

 

しかし、Twitterアカウント始めたての状態では、自分からいくらかフォローしないとフォロワーは増えません。

 

それ故、前回のアカウントでは最初に何十人かは自分からフォローしました。

そして、フォロバもそこそこの高確率でしていました。

 

それが失敗でした。

 

見たくもなたい or 見たいかもしれないけど自分のためにならないツイートが大量に目に入るようになってしまったのです。

 

そういうわけで今回はできるだけフォローしないようにしたいと思います。

 

そしてアカウント作成初期からそういう姿勢を貫いている場合、フォロワーは増えないということになります。

 

しかし、それでもいいと思っています。

 

たまたまあるワードで検索した結果、自分のツイートを見つける人というのは少数ですがいるはずです。

 

またTwitterでのツイートはブラウザでの検索にも当然引っかかるので、自分のアウトプットが見られる確率が少し上がります。

 

できるだけ人と交流せず、試したことや何らかの成果を淡々とツイートするアカウントを目指す所存です。

 

当然ながらそんな簡単に大層な成果を出せるとも思っていません。

 

しかし、ある段階の自分を自分で満足させられるくらいの成果は積み重ねていきたいです。そしてそれが結果としていつか誰かの目に止まれば一番いいです。

 

自分の需要を自分で満たす自給自足ライフはあこがれです。

 

YouTubeを観て1日の自由時間がほぼ消費されてしまうような受動的娯楽中毒や、賭け事や性行為などの一瞬の快楽の連続的摂取で人生を浪費することは避けたいです。

 

 

大学卒業後に本格的に色々考えて動くと思います(信じています)が、今から可能な限りできることはやっていこうと思います。

 

@thistle440Hz

 

・YouTubeチャンネル

・凡庸京大生の独り言(メインブログ)

・思い出エッセイ集(note)

春休み突入

f:id:nagisaharu:20220202223222p:plain

後期終了。大変疲れました。

 

 

成績が出るまで実際のところは分かりませんが、今期はそこそこ上手く行った気がします。

 

去年の後期は一桁単位しか取れなかったので、それに比べれば大躍進です。

 

 

オミクロン株の蔓延によりテストによる評価からレポートによる評価に切り替わった講義がいくつかあり大変面倒なことになったと思っていましたが、今期は専攻分野の講義がほとんであったためか比較的興味を持ってレポートを書き上げることが出来ました。

 

 

春休みにする勉強については詳しくは決めていません。

 

 

専攻分野に関してはその分野の本を数冊読もうとは思っています。

 

あと統計学。これは必ず勉強を進める所存です。単純に色々気になるので。

 

 

あと流石にそろそろ英語を頑張りたい。

 

 

自分は本当に心から語学が嫌いです。

 

語学は根性が必要です。単語や文法を頭に叩き込み、文章を読み、書き、聞き、口をパクパク動かして発音など完全にスポーツです。

 

体育会系根性の無い自分には厳しすぎます。

 

 

そんな語学嫌いの自分にとって第二外国語も当然苦痛です。

未だに単位が足りておらず、今期も4単位分入れる羽目になりました。

 

この4単位が取れていれば晴れて第二外国語とはおさらばです。

おさらばできなかったら泣くかもしれん。

 

 

春休み、がんばるぞい。

 

・YouTubeチャンネル

・凡庸京大生の独り言(メインブログ)

・思い出エッセイ集(note)

2021年の振り返りと2022年に対する願望

f:id:nagisaharu:20220101040509j:plain

2022年になりました。2022という数字の未来感がすごいです。

 

 

自分の中で2016年以降は最近、2015年はちょっと前という感覚があります。

 

でも2016年はもう6年前ということになるんですよね...時間が過ぎるのが早くて嫌になります。

 

 

新年は憂鬱です。人ともあまり会いたくありません(その理由はこっちで書いた)。

取り敢えず三が日はダラダラ過ごそうと思っております。

 

2021年振り返り

2021は比較的マシな年だった気がします。

2016~2018くらいの時期が過去最悪だったのでそれに比べればかなりマシです。

 

色々諦めると楽になるものです。

 

 

毎日日記を書いているのですが、日記で2021年を軽く見返したところ、ほとんどの日は大学の課題にヒイヒイ言っているだけでした。

 

 

2021年の序盤は、勉強したりプログラミングで遊んだりと少し充実していたみたいですが、夏休みでは思ったよりも勉強ができず、その後の後期でも大学でいっぱいいっぱいだったようです。

 

夏休みが終わってからは気がついたら冬になっていました。

 

 

大学入学前に定めた目標の一つに「自分の専攻した分野について1,2時間何も見ずに語れるようになる」といったものがありました。

 

これに関しては割と達成されそうなのではないかと思います。

 

 

数ヶ月に一回通話をする友人がいるのですが、その友人と大学の話になった際には、体系的な説明は無理にしろ、こういう研究があってこういうことが分かってる/分かってない、こういう説があるなど、講義で学んだことをペラペラ長時間喋ったりしてるので意外と真面目に聞いた講義の内容は頭に入っている気がします。

 

 

専攻分野以外の勉強はそこまで頑張れませんでした。

もう少しまともに数学をやりたいのですが、余裕がありませんでした。

 

統計学が魅力的かつ専攻分野にも関わるので、せめて統計学だけは頑張りたいと思っている所存であります。

 

 

プログラミングに関しては、どちらかと言えば苦手ではあるものの、プログラミングで何らかの作業を効率化したりだとかそういったものはやはり好きなんだと思います。

 

LINEボット制作、スクレイピングなどの趣味の他、大学のレポート課題にもプログラミングが役立っています。

 

得られたデータから自分の思い通りのグラフが書けるだけで満足します()

 

他には、これもお遊びですがiosのショートカット作成も定期的にハマってやってました。

 

自分用に色々作りましたが、他の人にとっても有用そうな(気がする)ものもあるので、そのうち共有しようと思います。

 

 

どこかの記事で機械学習を試してみたいとかなんだか書いた気がしますが、色々調べるうちに実装より理論の方に興味が湧き、それに関連する講義を後期では取りました。

 

その講義を得単したとしても自分の場合卒業単位に加算されないのが残念ですが、授業資料・先生の説明の両方が分かりやすいので満足しています。

2022年に対する願望

抱負ではなく願望。

 

抱負など言ったところで、どうせ2022年の終わりには抱負が何だったかなんて忘れてると思うので、こういう年になったらいいという未来の因果への願望を述べます。

 

 

取り敢えず、大学の単位が取れたら嬉しいですね。

 

毎年後期は単位が全然取れないので、今年はたくさん取りたい。

 

今の所そこそこ頑張れてるのでこのまま春休みまで頑張ってほしい。未来の自分頼みます。

 

あとは......なんでしょう。全然思いつきません。

辛いことが無いといいですね。辛いことが全く無いというのはありえないと思いますが、ちょっとしんどいくらいにしてほしい。

 

 

それから勉強が進むといいですね。

 

英語ができるといいですね。

 

 

リスニングができるようになりたいです。

調べ物をして、英語の解説動画がでてきた時に「あぁムリだ。」となってしまうのを辞めたい。

 

語学があらゆる勉強の中で一番嫌いなので、この勉強が続くかはかなり怪しい。

未来の自分、続けて。

 

音楽ことをもっと知りたいけど、それは流石に大学卒業してからかなぁ、と。

そんななんでもかんでも同時並行ではできません。

 

大学卒業後

大学卒業したら取り敢えずニートになる予定で、それを目標に大学生活を頑張っている側面があります。

 

ニートをやると言ったら「社会を舐めている」と言われたことがありますが、逆です。

 

社会を舐めてないからニートをやるのです。

社会でやっていける自信が全くありません。

 

 

ニートをやるにあたっての不安が実家での生活です。

 

ニートをやるとしたら高確率で実家に連れ戻されると思いますが、そうすると親と生活することになります。

 

自分の生活空間に誰かがいるということはかなり苦痛に感じられます。

一人じゃないと落ち着かないですし、人ともあまり喋りたくありません。

 

 

ニート生活においてはその面が非常に懸念されます。

 

 

新年早々書くような内容のことでは無い気がしてきたのでそろそろ終わります。

 

大学、オンライン授業になってくれないかなぁ...

 

・YouTubeチャンネル

・凡庸京大生の独り言(メインブログ)

・思い出エッセイ集(note)

これからはPCをまともに使えない若者が増えていく

この記事は別のサイトに移転しました。

約2秒後に自動的に記事に飛びます。

ピアノの擬音語の1つが「ポロン」であることに納得できない

f:id:nagisaharu:20211107112309p:plain

 

タイトルの通りです。なぜ「ポロン」なのでしょうか......

 

タイトルのようなことを思っていてネットで調べたら、全く同じことを考えている方がおられました↓

楽器の音色を擬音語で表すなら? - 皆さんの感性でお答えください。... - Yahoo!知恵袋

 

 

一度もピアノの音を「ポロン」という擬音語と結びつけたことがありません。

 

ピアノの音は「タカタカターン」だとか高い音だったら「ピンッ」や「パンッ」がしっくりきます。和音だったら普通に「ジャジャーン」とか。

 

「ポロン」という文字がピアノのそばにかかれていたマンガを初めて読んだ時は「なにこれ?ピアノの音なのか」と0.7秒くらい思考がとまりました。

 

 

特に「ポロン」の「ロ」が納得できません。

とても不思議です。

 

 

いつからピアノの音を「ポロン」と表現するようになったのか、最初に「ポロン」と表現したのは誰なのかなどが気になり、軽く調べてみましたがめぼしいものはヒットしませんでした。

 

その方面に詳しい方がおられましたら是非ともご連絡をお待ちしております。

 

 

・Twitter

・メインブログ

・YouTubeチャンネル

・思い出エッセイ集(note)