あらゆる勉強系?情報の発信者を見ていて思うのですが、何か勉強法などを紹介する時、ある成功体験を”後から”振り返ってまとめているものが多いですよね。
それらは確かに有益であり、実際は私も受験記事等はそういう形で書いています。
ただ、個人的にはもっと、過程を見せびらかす内容の動画やブログが溢れてもいいと思うんですよね。
それが成功に終わるか失敗に終わるかは正直おまけ程度で、”頑張ったけど失敗した”というものでも多いに価値があると私は感じます。
成功体験の再現性
基本的に何かで成功するというのを目指す時、寄り道なしの一発での成功というのはレアケースでしょう。
あらゆる試行錯誤をして、あれもこれもダメだったというのを繰り返してようやく当たりを掴む感じだと思います。
私はその、”あれもこれもダメだった”というのが知りたいのです。
成功体験を話されたとして、その成功体験に再現性はあるか、というのが情報受信側の気にするところだと思います。
そして実際のところ、再現性のない場合が多い、というかそもそも情報発信側が再現性を気にしていない場合が多いです。
成功者より失敗者の方が多いことを考えると、成功体験の再現性よりも失敗体験の再現性の方が高いはずです(多分合ってるけど、この文章の論理は怪しい気がする)。
ということは、失敗体験の情報が集積されれば、明らかに失敗するであろう試みは初期段階で弾けることになります。
本当は、今までに色んな人がチャレンジして失敗しているのに、その体験が共有されてないせいで後続の人が同じ試みをして同じ失敗をし続けている、という現象は可視化されていないだけでかなり多いと思っています。
過程はごまかせない
成功体験を後から振り返る場合、色々な要素が美化されたり、省略されたりします。
泥臭かった過程の泥臭さが半減したりします。
自分の例が一番話しやすいので、自分の例を出しますが、例えば私の医学部受験記はそれを意識した試みでした。過程を曝け出しています。
ちなみに受験はしっかり失敗してます。
偉そうに勉強計画とか立てといて落ちてるんです。
恥さらしもいいところです。
しかし、だからこそそれらの情報は、後から振り返ってまとめて書くよりも間違いなく解像度が高いです。
参考書1つ選択するにしても、なぜその参考書が良いと思ったか、他の参考書との比較検討ではどう感じたかなど、その時に感じていた気持ちとともに記述しています。
当時感じていた不安なども惜しげもなく曝け出しているので、もし読み手の状況が当時の私の状況に近ければ、不安を勝手に共有することができます。
読み手はそうした、失敗サンプルを1つ獲得することになります。
一応注意ですが、成功サンプルが良くないと言っているわけではなく、失敗サンプルの数がそれに比べて少ないことが良くないのです。
失敗サンプルを増やして、読み手が失敗サンプルと成功サンプルとを比較検討できる状況を作るべきなのです。
失敗サンプルの方が絶対多いはずなのに、成功サンプルの情報のほうがありふれていますからね。
ということでみんな、過程を晒そう!
失敗体験の共有は恥ずかしいかもしれませんが、みんなでやれば怖くない()
自分の場合は恐らく、これから特に英語学習の過程を曝け出していくことになると思います。
これで英語力上がらなかったら恥ずかしいので真面目に勉強します。