凡庸京大生の自由帳

京大卒ニートの自由帳

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カントの認識論を色知覚の例で考える

まず以下、カント認識論の自分なりの大雑把な理解。

 

まず、環境におけるなんらかの物体そのもの(物自体と呼ばれます)を感性によって受け取ります。

これは本当に文字通り受け取るだけです。情報(光・色などの物理的なもの)がただ入ってくるだけのイメージ。

 

ではこの感性で受け取ったものをどうやって我々は解釈・理解するのか。

その役目を担うのが悟性です。悟性によって我々が持っている知識などが総動員され、それが何であるかということを我々は解釈・理解できるようになります。

 

 

昔、大学受験の勉強としてこれを学んだ時、「物自体を捉えることはできない」ということを覚えただけで、具体例は特に思いつきませんでした。

 

 

ですが最近、カントの認識論を改めて考えた時、「色知覚がまさにその具体例ではないか」と思いました。

 

目の前のりんごを赤いと認識する時、我々が赤とイメージするような色を(感性によって)りんごから受け取っているわけではありません。

 

我々は色を見ているのではなく、ある波長を知覚し、それを解釈しています

(赤だとしたら700nm~800nmあたりの波長成分がピークでしょうか)

 

人間の網膜には3つの錐体細胞があり、それらは網膜に入ってきた波長の成分に対応して興奮度合いが変わります。

 

そして、その興奮度合いの違いを利用して、脳がある計算をした結果が我々の色の解釈となるのです。

 

これを考えた場合、果たして我々がイメージする赤という属性を、目の前のりんごが本当に表面にまとっていると言えるでしょうか。

 

人間の認識を通さない世界(そもそもこれが人間には認識不可能というわけですが)において、りんごがどのようであるかというのは誰にも分からないのです。

 

物自体の認識は誰にとっても不可能である、となります。

※ただ、"波長"も人間の認識を通して得た概念であり、波長が物自体かと言われると...うーんわからん

 

 

......とまぁこのような理解をした時、自分は少し理解が深まった気がしたわけですがどうでしょうか。

 

 

カントの道徳や倫理については「価値観が合わん...」となってしまい、内容は殆ど覚えていませんが、認識論は面白いですね(小並感)。

 

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