凡庸京大生の自由帳

京大卒ニートの自由帳

サブブログ。こちらでは個人的な事しか書きません。日記・つぶやき。

アメリカ・カナダ・イギリス・オーストラリア英語に対する初期印象

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TOEICのリスニングはアメリカ・カナダ・イギリス・オーストラリア英語のどれかが話されます(復数話者の場合はそれらが入り混じる)。

 

どれも一定の特徴があり、少し勉強をすると「今の音声はオーストラリア英語だ」といった具合に高確率で判別することができます。

 

 

数ヶ月~何年も各英語を聞いている方は、音声を聞いた時にその英語を特徴づける要素を次々といくつも指摘できるのだと思いますが、自分はそんなにいくつも指摘することはまだできません。

 

 

それにも関わらず高確率で判別できるということは、各英語を特徴づける数ある要素のうち、重みの大きい要素を数個だけキャッチし、それらを基に判別しているということになります。

 

各英語に対して現在自分が感じている印象は、初学者に気づけるほど明らかなものなのです。

 

勉強を進めていくうちに各英語の特徴をたくさん獲得していくことになると思いますが、それらは今持っている特徴よりも重みは小さいはず。

 

 

各英語に関しての初期印象を書き記し、後からそれを見返した時に「勉強したての頃はこれらの特徴しかキャッチできなかったけど今はもっと沢山特徴を挙げられる」という状態になってたらきっと嬉しいはず。

 

そういうわけでここに現時点での各英語に対する初期印象を書き記しておこうと思いました。

 

 

アメリカ英語はなんかRが強いです。口の中の空間的広がりが大きい感じがします。

今まで学校で習ってきた英語というのはほとんどがアメリカ英語であり、これまでそんなにRが強いとかは意識していませんでしたが、他と比べると明らかです。

 

(あとなんかTOEICの音声だと話すときのテンション高くない?)

 

 

イギリス英語はTの音がよく聞こえます。それもなんか若干Sの要素が入ってるようなT。アメリカ英語とは違い、Rが全然聞こえない。

 

日本人にはもしかしたらアメリカ英語よりもイギリス英語の方が聞き取りやすいかもしれないと思いました(ちなみに自分は米英どちらも同じくらい聞き取れない)。

 

 

オーストラリア英語。これもうホント勘弁してほしい。

音が消えます。短縮されて消えてるように聞こえる、とかではなくホントに消えてます。スロー再生で確認して「ちゃんと発音してくれよ...」って嘆いてしまうレベル。

 

アメリカ英語とイギリス英語のどちらに近いかと言えばイギリス英語に近い印象。

まぁ歴史的背景を考えればそりゃそうだろって感じですが。

 

 

カナダ英語は一番判別が難しい。これと言った特徴が挙げられない。カナダ英語だと気づく時のプロセスとしては

 

アメリカ英語か...ん?なんかちょっと違う」→「イギリスでもオーストラリアでも無い。じゃあカナダか。」という消去法みたいな感じです。

 

強いて言えばアメリカ英語のRをちょっと弱くしてる印象があります。全体的にアメリカほど大げさ(?)に発音してない感じ。

 

 

聞き取りやすさで言えば

カナダ英語>アメリカ英語≒イギリス英語>オーストラリア英語

の順になるかもしれません。

 

 

オーストラリア英語が来た時の絶望感たるや......

 

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勉強時間記録してみた&最近のお勉強(2022/03/05)

いつの間にか春休みが半分過ぎてます。

 

お勉強を少ししてます。

 

自分はかなり頑張っても1日平均4時間位しか勉強できません...というのをどこかで書いた気がします。

 

しかし、それはあくまで受験生の時の話。

今現在においてはどうなのか。

 

その調査も兼ねて、今年の春休みは自己管理を目的にStudyplusというアプリを使って勉強時間を記録してみることにしました(大学生にもなってこういうアプリに頼っている自分が悲しい。誰か管理してくれ...)。

 

勉強時間

2月の週ごとの勉強時間がこちら↓

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1日4時間なんて到達してないじゃん...

 

体感的には6~8時間くらい勉強している気分なのですが、時間を測ってみると全然そんなことはなく。

 

 

他の時間何やってるか謎です。

 

趣味の散歩に時間を費やしているわけではないです。

 

寒くて外出れん。散歩なんて最後にしたのいつだっけレベル。

 

趣味を聞かれた時には散歩と答えているのですが、冬は数回しか散歩していないのでもはや趣味とは言えないかもしれない。

 

最近のお勉強

プログラミングは2月の終わりに少し触ったくらいです。

 

というのも友人ととあるハッカソン(短期間で何かしら作るやつ。明確な定義は自分も分からん。)に出ることになっていたのです。

 

API構築できるようになっておいて~」と友人に言われていて、PythonAPIと言えばとりあえず最初はFlask!みたいな雰囲気があるので少し勉強。

 

あとハッカソンでの出番は無かったのですが、Vue.jsというものにも少し触れました。そのうち簡単なゲームみたいなのをブログにでもあげてみたいですね。

 

 

さて、最終的にハッカソンで作ったのがこれです↓

 

Google Meetでの会議中、笑顔じゃなくなったら強制退出させられるという拡張機能、もといおもちゃを作りました。

 

自分がやったのは、画像(映像を高速でスクショしたものが送られてくる)に映っている人が笑顔かどうかをOpenCVで判定し、その笑顔判定結果を返すというAPIの部分。

 

 

できる人がやったら数分でコードを書けるであろう内容ですが、そもそもAPIを知らないということやOpenCVについて調べる作業でかなり実装に時間がかかってしまいました。

 

 

拡張機能側の画面のスクショ処理などは友人がやってくれました。友人ありがとう...

ついでにプレゼン発表?も友人に投げました()

 

まぁ自分が発表とかしたら変なこと口走って空気悪くする可能性高いししゃーない...

 

 

入賞とは行きませんでしたが、アイデアを何かしらの形にする経験は今後のモチベに繋がりますし、他の参加者の作品も面白いものが多く、技術的な学びもありました。

 

参加して良かったなと思います。

 

 

他に何をやって春休み前半を過ごしたかと言えば、基本的には英語と統計関連のお勉強ということになります。

 

 

英語はTOEICのお勉強をしています。

 

TOEICはしょうもないということは大分前から聞いていたのですが......まぁ確かにしょうもないですねこれは。

 

ビジネス英語?みたいなので構成されています。特に知的好奇心をそそられるような内容では無いです。

 

ではなぜTOEICの勉強をするのか。

 

実は自分は大学1年目の時に大学でTOEICを受けさせられた過去があります。

 

点数はなんと600点代前半でした...

 

リスニングがありえないほど苦手であること、そして時間が足りずに後半は塗り絵をして終わったこと、この2つが見事に点数に反映されました。

 

 

受験生の頃、英語は嫌いだったのですが、それでも自分の中での得意科目の1つではありました。

当時、700点くらいは取れるんじゃね?と思っていたので割とショックだったことを覚えています。

 

 

その不快な記憶を成功体験で塗り替えたいという思いが今更湧いてでてきたこと、そして単語と文法がある程度出来ていればTOEICは対策によって点数が大きく上がるという情報を入手したことから、少し頑張ってみるかという気になりました。

 

英語の勉強時間のほぼ全てをリスニングに費やしています。

明らかに1ヶ月前よりは英語を聞き取れるようにはなったと思いますが、それでもまだ全然ダメです。

 

 

発音というものに対してもっと真剣に向き合ったほうが良いかもしれないとここ数日で思い始めています。

 

英語はそんな感じ。

 

 

あと統計学をもう少しまともに勉強したいと思ったので、それも少しやってました。

 

まずは統計解析がわかる(ファーストブック)という本で軽く既習部分をおさらいしたのですが、この書籍は統計学(というか統計解析?)の一冊目に最適だと思いました。

 

一番最初にこの本で勉強すれば良かったなと少し後悔しています。

 

 

今は統計学入門という本を読み進めています。

 

この本の存在は前から知っていたのですが、何となく重い感じがして忌避していました。

 

しかし、読み進めてみると全くそんなことは無くむしろ読みやすい。

 

これは絶対最後まで読みたいですね。

 

 

 

他には機械学習の理論を知りたい!ということで、数式をしっかり使って解説してくれる日本語の動画無いかなーと探していました。

 

筑波大学OCWの講義がなんとなく良さそうと感じたので受講しております。

 

全部で10講義あり、1講義は約2h。

 

自分は今現在第8講まで受け終わりました。

とはいっても講義内容を100%は理解できていないという悲しい現実。

 

要復習。

 

 

 

こう振り返って勉強したことを文章に起こしてみると、勉強時間相応どころか無駄に時間かけてるのでは?という気がしてきました。

 

 

読書もしたいのですが、読みたい本は机の横に鎮座ましましています。

読書の時間は余裕であるはずなのですが、時間の使い方が下手すぎて読めていません。

 

奇跡的にそれらを読了したらそのことも書くかも。書かないかも。

 

 

 

専攻分野の勉強はどこ行った......

 

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サイゼリヤの客案内(配席)についての疑問点・不満点

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自分はサイゼリヤが好きです。理由は単純にコスパが良いから。

 

本当に心から好きなのですが、1つだけ不満点(疑問点?)があります。

 

それは客案内(配席)の方法です。

 

 

店による感じもしますが、よく行くあるサイゼリヤでは客がそんなに多くない時でも、既に別のお客さんのいる隣の席にわざわざ案内されます。

 

食事をする時に、隣に見知らぬ他人がいたほうが良いか、いないほうが良いかと問われたら明らかに後者を選択する人が多いはずです。

 

 

そういうわけで自分は毎回、そういった席に案内される場合(高確率でそれは起こる)、「別の席にしてもいいですか?」と店員さんにお願いしています。

 

ちなみにこのお願いが拒否されたことは一度も無いです。

 

 

さて、こういったことをグダグダ述べていると必ず下記のような反論がくることでしょう。

 

①そんなん言うならサイゼリヤ行くなよ

②たかだか配席でガタガタ言うな

③店には店の都合があるんだよ

 

 

①←そもそも論点が違います。

 

②←確かにたかが配席です。しかし前述の通り、隣に見知らぬ他人がいたほうがいいか...(略)ということを考えれば、顧客満足度の点で”たかが”配席くらいは工夫しても割に合うのでは無いかと思います。それに席を変えてほしいという要望が拒否されないという点も気になります。

 

③←そのとおりです。自分もそれを考えていないわけではありません。新たに客が来た時のための工夫があったり、料理を運ぶための労力などを考えているのだとは思いました。

 

 

しかし、憶測の納得では確実性に乏しい。何よりも個人的に気になってしょうがない。

 

そういうわけで、サイゼリヤの配席マニュアルについて店員さんに直接聞いてみました。

 

 

するとやはり、料理を運ぶための労力を考慮しているとのことです。

 

あと関係ないですが、外国人はここの一角に集めるとかも決まっているらしいです。それは新たな発見でした。

 

 

さて、料理を運ぶための労力とはいいますが、サイゼリヤってそんなめちゃくちゃ広いですかね。

 

よほど広いサイゼリヤだったらその気持ちも分かりますが、自分のよく行くサイゼリヤは特に大きいというわけでもないと感じます。

 

 

配席を工夫してほしいと言っても何も、既にいる客と最長距離の位置の席に案内しろと言っているわけではありません。

 

 

キツキツに詰める必要は無いと言っているのです。

 

 

席を少し空けて案内し、料理を運ぶための時間を考えたとしてもロスはほんの数秒でしょう。

 

既に一定のエリアの席に他のお客さんが多くいるのなら、最奥と言わずとも別のエリアの席に案内してほしいですね。

 

 

と小言を言ってみましたが、この客案内(配席)問題以外はサイゼリヤに特に何も不満点はありません。

 

 

どうでもいい疑問点としては、サラダのサイズは昔(6,7年前とか?)からあんなに大きかったかということ。

 

昔のサラダは白い小皿にちょっとだけのイメージですが......記憶違いかもしれん。

 

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小学生の時の学校での記憶がほとんどない

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友人とごくたまーに小学生時代の話になるときがあります。

 

その時に思うのが「あれ、みんな小学生時代のこと覚えすぎじゃね?」ということ。

 

 

小学校1年生2年生の時の学校での記憶とか無いのが普通でしょって思ってましたが、どうやらそうでもない模様。

 

 

聞いて回りたいところですが、友人が少なすぎて十分な聞き取りサンプルが取れない。大変残念。

 

 

自分の場合、小学校1~3年くらいは親と先生にとにかく怒られていたという記憶があるだけで、具体的な学校での情景はあまり思い浮かびません。

 

つまり、その時期にとにかく怒られていたという記憶の記憶(≒どこかの時点でその記憶を想起したという記憶?わからん)があるだけなんだと思います。

 

 

数少ないおぼろげな記憶についても、それが夢か現実か自信が持てません。

 

 

自分は現実と夢が時々区別できなくなります。

 

友人にLINEやメールを送ったと思ったのに、確認してみたら実際は送ってなかったということがたまにあります。夢で送ってたのか、と後で気づきます。

 

 

まぁそれは良いとして、全力で小学校での記憶を思い出しているのですが、本当に思い出せん...

 

 

今、帰りの会(懐かしい)で先生が九九を前の席の子から順番に当てて答えさせていく情景が思い浮かびました。「何のためにこれやってんだ......」と早く帰りたいという強い気持ちがあったから記憶に引っかかっているのかもしれません。

 

でも何年生の時のことなのかが分からない。

 

というわけで調べてみたら九九を習うのは2年生らしい!やった!2年生のときの記憶がある!

 

 

3年、4年次の学校での出来事は1つも思い出せない。

 

 

5年生のときのものと思われる記憶は3つほど出来事を思い出しましたが、それが本当に5年生だったかは分かりません。

 

 

6年生については教室の情景がかなり鮮明に思い出されました。授業もいくつか思い出せます。

 

自分の小学校時代の記憶は5年と6年のもので埋め尽くされているらしいです。

 

 

ただ、学校外の記憶は結構残ってます。

瞬時にたくさんは思い出せませんが、学校に比べたら多いです。

 

 

小学校低学年次に親や先生から怒られまくったことで学校での記憶が抑圧されているとしか思えません。

 

 

小学校低学年次は今思うと本当におかしかったです。なんであんなに人に物理的危害を加えていたのか謎です。別の人間みたい。

 

 

そのおかげで学校からは電話が頻繁に飛んできて、未だに実家で電話の音を聞くと喉がきゅっと締まり、手汗が出てきます(こっちにも書いたことだけど)。

 

 

小学生の時の学校での記憶(特に低学年次)は普通あるものなのでしょうか。

 

気になります。

 

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靴を履くのが面倒くさい。コートを着るのも面倒くさい。

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今は春休みですが、その前の1月の終わりまで自分は大学には大抵部屋着のまま、そして靴はサンダルを履いて行っていました。

 

で、人から言われて初めて気づいたのですが、周りを見渡しても真冬にそんな格好をしている人はいません。

 

 

寒くないのかとか言われますが、勿論寒いです。

 

しかし、その寒さよりも靴を履くこととコートを着ること(厳密には着て行くこと)の面倒くささのほうが勝ってしまいます。

 

 

逆に他の人はその面倒くささよりも寒さへの対処を優先しているということですが、ここに自分の面倒くささの度合いの強さが垣間見えました。

 

 

冷静に考えて、ただ外にでるという行為のために靴を履くってかなり面倒です。

 

靴を履くということは靴下を履くということであり、靴下を選び、履く作業があります。

次に靴を履くという行為そのものでは、かかとの部分に指を入れて靴を履きます。これはスムーズではない。

 

 

一方サンダルは足をすっといれて終わりです。素晴らしい。

 

 

次にコートについてですが、外出の直前にコートを着るという行為についてはそこまで面倒くさくないのです。これはサンダルを履くのと同じようなものです。

 

問題は、大学に着いた後。

 

講義室の中は暖房が効いているのでコートを脱ぐ必要があります。

 

この時点で少し面倒ですが、さらにコートの外側にゴミがつかないように、コートの内側を外側にしてくるめて隣の椅子に置くだとか、コートのポケットに入ってるスマホを出すだとか、「あれ?財布ってコートのポケットに入ってたっけ?」と言った具合に脱いだコートの中身をいじるだとか...etc.

 

とにかく考えることがなんか増えます。

 

 

それが嫌というわけなんですが、こう文章に起こすとなんだか面倒くさがりというよりも脳の考えるためのスペースが極端に小さい、といったほうがより本質的な気がしてきました。

 

確かに同時にいろんなことを考えると脳がすぐにパンクしがち。

入学時は書類だとか申し込みだとか履修だとかでほんとに頭おかしくなってました。

 

 

服に関しては同じ服7着くらい持ってるんですが、これも無意識的に脳を考えさせないようにした結果なんでしょうか。

 

 

1日長時間勉強できないこととも関係ありそう。

 

やる気がなくなって勉強できなくなるとかではなく、単純に疲れてもう無理だってなるんですよね。

 

長距離走限界まで走った後に、はいじゃあ次は100m走!とか言われてもいや無理でしょってなりますよね。

 

それと同じです。いや違うか。

 

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Twitterアカウントを作った&Twitterが嫌いな理由(≒人嫌いの理由)

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Twitterのアカウントを作りました(こちら)。アカウント作成はもう何度目かわかりません。

 

自分はTwitterが嫌いです。じゃあなんでアカウント作るんだよってなると思いますが、まぁ一種のチャレンジです。

 

アウトプットの場としてTwitterを活用しようと思いました。

たとえフォロワーが0人であろうとTwitterでアウトプットすることにデメリットは無く、少なからずメリットがあります(後述)。

 

メリットがあると分かっていながらTwitterをやらなかったのはTwitterが嫌いだからですが、もっと厳密に言えばここ数年で自分の「人嫌い」がネット世界にも拡張されてしまったからであるということになります。

人嫌い=人との関わりが嫌い

「人嫌い」とは、多くの場合「人との関わりが嫌い」ということではないでしょうか。

少なくとも自分はそうです。

 

自分の場合、人間それ自体は恐らく好きです。

 

大小問わず何らかのコミュニティの秩序が保たれている状態、また秩序が保たれるための諸条件などは多様で面白く、興味のひかれるものです。

 

また人間の身体機能にも興味があります。

知れば知るほど不思議で、特に人間の脳の複雑さには驚かされます。

 

 

ただ、ここでいう人間が好き、というのは水槽で泳ぐ金魚を見るのが好きというようなものであり、人間と相互的に関わることや、他者から何らかの作用を及ぼされることは嫌いです。

 

これが「人嫌い」です。

 

 

人間って個体差が大きすぎて行動が予想できなさすぎるし、何考えてるかわからないし、そのくせ言語で以てある程度は意思疎通を試みることができてしまうし...

 

分からなすぎて気持ち悪いしイライラするんですよね。

人間と関わる時に考えることが多すぎて脳が疲弊します。疲れるのは嫌いです。

 

そのような人間という存在と積極的にコミュニケーションを取りたいと思う人の気持ちは一生かかっても理解できないと思います。

 

 

そういうわけで現実世界ではできる限り人と関わらないようにしようとしてきました。

こうすると何がいいかと言うと、毎日の思考の中の登場人物が自分以外現れません。

 

自分の人生なのに、自分の思考に他者が介入してきたり、ましてや他者のことで悩むなど絶対に嫌であると強く感じます。

 

他人に時間を割くということが無いのでストレスフリーに近づけるのです。

ネットの常に人があるという感覚が苦手

前までの自分は現実世界では極力人と関わらないようにしていましたが、ネットの世界では頻繁に人と交流していました。

 

主にTwitterで同年代の人達と毎日のように関わっていましたが、ここ数年くらいでそれも無理になりました

 

 

そのアカウントは1300人くらいフォロワーがいたので、消すのは勿体なかったなと後悔していますが、今振り返ると現実世界で耐えられなかった、人と関わることへのストレスがネット世界にも拡張されていたんだと思います。

 

 

アカウント削除に踏み切った大きなきっかけがあったわけでもありません。

 

そもそも自分はTwitterのアカウントやLINEのアカウントを衝動的に消してしまう癖があるのです。

 

Twitterのアカウントリセット?(アカウント削除➜新しく作り直し)は何度したかわからないほどしました。

 

LINEのアカウントも3回くらい消しています。

 

 

ネット(特にSNS)は常に人とつながっている感覚をもたらします。

冷静なときにふと、人とつながっていることがストレスとして襲いかかるのです。

 

 

それに加えて、Twitterのような不特定多数の人の発言が短時間に大量に見えてしまうものは大きなストレスとなりました。

 

人間1人の反応に対する処理でも大変なのに、大量の人間の発言は脳が処理しきれませんでした。

相互的に関わっているわけではないですが、いくつもの人格を帯びた文章が自分になんらかの作用を及ぼしてきます。

 

「なんでこんな考えをするんだろう」「なんでわからないんだろう」という反応を1ツイートごとにしてしまって頭がおかしくなりました(「考えなければいいじゃん」とはよく言われますが思考が止められないのです)。

 

YouTubeのコメント欄もそんな感じでめちゃくちゃイライラしてしまうことが多いです。

 

面白いコメントやためになるコメントもあるのでつい見てしまいますが、苛立たしいコメントの方が圧倒的に多いですね。

 

 

このような、人格を感じるものが自らに作用を及ぼしてくることへの忌避が歳を重ねるごとにどんどん強くなってきているのを感じます。

 

 

人格を構成するパラメータ群は1人として同じことは無いので、現実世界でもそれへの処理は大変です。

 

ネットはその人数が現実よりはるかに多いわけで、自分にそれらへの耐性はありませんでした。

 

 

じゃあネットなんかやらなければいいじゃないか、という話なのですが今の社会でネット活用を完全にやめてしまうというのは圧倒的ハンデを背負うことになります。

 

そのハンデを自分はまだ完全には受け入れられないのです。

 

特に、Twitterは素晴らしいネットツールの一つです。

Twitterで発信することの重要性

ネットへの耐性の低さはあらゆる可能性を極端に狭めてしまうことに繋がると強く感じています。

 


自分は将来就職するということを考えていません(考えられません)。

 


大学卒業後はほぼニート確定なのですが、いつまでもニートであるわけにもいかないでしょう。

可能であるならばいつかは個人でどうにかしたいと思っています。

 


なんらかの娯楽・作品・ツール...etc.を提供して生きていくというのが理想です。

 

 

それを目指す場合、言うまでもなくTwitterの拡散力は大きな武器になるわけですが、そこでネット適正の壁にぶつかります。

 


(取らぬ狸の皮算用感がすごいですが)例えばもしも奇跡的に自分が何かしら価値あるものを提供できそうだ、となった場合であっても、ネットの海にそれをさらけ出さなければ誰かにそれを認知してもらう確率は、ネットにそれをさらけ出さない場合に比べてとんでもなく低いでしょう。

 


「取り敢えずアウトプット」という精神は本当に重要だと思います。

そしてアウトプットの場としてのTwitterは非常に強いです。

 


アウトプットの成功サイクルとしては、特にここ数年で以下のパターンがよく目につくようになりました。

 


TwitterYouTubeで何らかのコンテンツをコツコツ発信

②支持してくれる人が増え、拡散される

③企業の目につき商品化

 

 

特に、「Twitterにオリジナル漫画投稿→出版社の目につき出版→アニメ化まで」という流れは本当によく見ます。

 

 

ここまで直接的にお金にならないとしても、例えばブログやYouTubeなどはアクセス数が多いほど収益がでるので、単純に1人でも多くの人に見てもらうことに価値があります。

 


また、Twitterに関して言えばフォロワーが少なくても拡散されれば多くの人の目にふれます。


勿論フォロワーが少ないと拡散される確率も小さいですが、確率は0ではないです。

 


事実、自分が以前使っていたアカウントで、あるツイートがバズり(1.8万RTくらいされた記憶)その影響で一時的にブログへのアクセス数が跳ね上がりました(ちなみにその時のフォロワー数は40人くらいだった気がします)。

 

一時的なアクセス数増加と言っても、自分のサイトに言及する人の数は増えるわけで、それによりドメインパワーが強くなるので、その後にも良い影響として残ります。

 

 

企業の方から案件をいただくこともありましたが、Twitterでのバズりがそれに間接的に関わっていたという可能性は否定できないでしょう。

 

 

そういったチャンスの存在を知っているのにも関わらずTwitterから距離をおいていたのは自らの精神の弱さ故です。

 

Twitterに伴う精神的苦痛がTwitterで得られるメリットを上回ってしまっていました。

できるだけフォローしない

前回のアカウントもどちらかと言えばアウトプットのために使っていました。

 

しかし、Twitterアカウント始めたての状態では、自分からいくらかフォローしないとフォロワーは増えません。

 

それ故、前回のアカウントでは最初に何十人かは自分からフォローしました。

そして、フォロバもそこそこの高確率でしていました。

 

それが失敗でした。

 

見たくもなたい or 見たいかもしれないけど自分のためにならないツイートが大量に目に入るようになってしまったのです。

 

そういうわけで今回はできるだけフォローしないようにしたいと思います。

 

そしてアカウント作成初期からそういう姿勢を貫いている場合、フォロワーは増えないということになります。

 

しかし、それでもいいと思っています。

 

たまたまあるワードで検索した結果、自分のツイートを見つける人というのは少数ですがいるはずです。

 

またTwitterでのツイートはブラウザでの検索にも当然引っかかるので、自分のアウトプットが見られる確率が少し上がります。

 

できるだけ人と交流せず、試したことや何らかの成果を淡々とツイートするアカウントを目指す所存です。

 

当然ながらそんな簡単に大層な成果を出せるとも思っていません。

 

しかし、ある段階の自分を自分で満足させられるくらいの成果は積み重ねていきたいです。そしてそれが結果としていつか誰かの目に止まれば一番いいです。

 

自分の需要を自分で満たす自給自足ライフはあこがれです。

 

YouTubeを観て1日の自由時間がほぼ消費されてしまうような受動的娯楽中毒や、賭け事や性行為などの一瞬の快楽の連続的摂取で人生を浪費することは避けたいです。

 

 

大学卒業後に本格的に色々考えて動くと思います(信じています)が、今から可能な限りできることはやっていこうと思います。

 

@thistle440Hz

 

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春休み突入

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後期終了。大変疲れました。

 

 

成績が出るまで実際のところは分かりませんが、今期はそこそこ上手く行った気がします。

 

去年の後期は一桁単位しか取れなかったので、それに比べれば大躍進です。

 

 

オミクロン株の蔓延によりテストによる評価からレポートによる評価に切り替わった講義がいくつかあり大変面倒なことになったと思っていましたが、今期は専攻分野の講義がほとんであったためか比較的興味を持ってレポートを書き上げることが出来ました。

 

 

春休みにする勉強については詳しくは決めていません。

 

 

専攻分野に関してはその分野の本を数冊読もうとは思っています。

 

あと統計学。これは必ず勉強を進める所存です。単純に色々気になるので。

 

 

あと流石にそろそろ英語を頑張りたい。

 

 

自分は本当に心から語学が嫌いです。

 

語学は根性が必要です。単語や文法を頭に叩き込み、文章を読み、書き、聞き、口をパクパク動かして発音など完全にスポーツです。

 

体育会系根性の無い自分には厳しすぎます。

 

 

そんな語学嫌いの自分にとって第二外国語も当然苦痛です。

未だに単位が足りておらず、今期も4単位分入れる羽目になりました。

 

この4単位が取れていれば晴れて第二外国語とはおさらばです。

おさらばできなかったら泣くかもしれん。

 

 

春休み、がんばるぞい。

 

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